04 art festival@mita

Last-modified: 2008-03-24 (月) 23:40:45

アートフェスの企画が頓挫した理由、または原因を箇条書きにして挙げなさい

・ 実現に向けての努力を怠ったから

・ 本当はアートにそこまで思い入れがないのに、さもあるかのように思い込んで(=背伸びをして)企画を考えたから

・ 努力(のつもり)の方向を誤ったから=根回しに必死だったから

・ 実現可能性を度外視したから

企画記録概略 Edit



6月18日。一回目のプレゼンをしました。企画はけちょんけちょんにされました。でも岡原先生がボツにするのはもったいないからとの理由で、「もう一回練りなおしてみたら?賛同する人は手伝ってあげて」とおっしゃいました。そこで、足立、川端、中野、溝添が賛同してくれました。ちなみに、この日に2004年度の三田祭で2本の映画を上映することに決まりました。そのため、アートフェスに賛同の意志を示した志賀は先生に却下されました。



その日から再び企画の練り直しが始まりました。途中で荒井も企画に加わり、ミートを重ねた。小規模のミートも含めれば10回くらいやっただろうか。途中で神崎、大司、高橋さん、溝上さん、吉田さん、新井さんに協力してもらいました。2回目のプレゼンの前の1週間はほとんど寝ないでやりました。 

そして、7月9日。二度目のプレゼン。とりあえずゼミではGOサインがでました。ただし、とりあえず学校に交渉してみないと始まらないのでは、との意見もいただきました。



その後いよいよ夏休みに突入しました。まずは学内の人の支持をとりつけようと思い、理工学部の熊倉先生を紹介してもらい、会う約束をとりつけました。熊倉先生は大学街プロジェクトに関わっている方です。しかし、実際に会ったのは9月の13日です。それまで僕は何をしていたのでしょうか。いえ、何もしていません。

そこで貴重なアドバイスをいただいたのですが、同時に、実現することが予想以上に難しいということを実感しました。そしてよくわからずに企画を放置します。いや、むしろさじを投げた、という表現の方がただしい。

時は12月まで流れます。冬休みに、04には課題として「卒業制作の予定を考えて来ること」が与えられました。そこで僕は再びアートフェスの企画を引っ張りだします。そして、それを卒業制作として実行しようと思い立ちました。そのために岡原先生とメールで相談しました。

そして1月7日。卒業制作の予定を発表する日が来ました。そこで僕は、アートフェスを卒業制作にすることとそれができなければゼミにいても仕方がないと思っていることを岡原先生に伝えました。先生は、アートフェスを卒業制作にするのは、実現したとしても、その反省と分析がともなわないためにふさわしくない、と指摘されました。また、実現しなかった場合にもその理由をきちんと明示する必要がある、ともおっしゃいました。僕はそれらの指摘に納得しました。

その後、1回ミートをしました。そして、僕の企画を実現したいとの希望から1月18日にプレゼンする機会をいただきました。3回目のプレゼンを、サブゼミを休んでまでやりました。反応は芳しくなかった。っそれは企画の内容があまりに具体性を欠いたためです。

その日以降公式に1回、非公式に2回ほどミートをしました。公式・非公式の違いは、メーリングリストで呼びかけたかどうかの違いです。

その中で次第に自分の情熱の欠如と考えの甘さに気がつきました。

その結果、2月15日の深夜に数名のゼミ生の前で白旗を揚げました。ただ、その話があまりに唐突すぎるとの指摘を受けました。

 

「実現に向けての努力を怠ったから」とは Edit

要は頭であれこれ悩んでいるわりには行動していなかった、という一言につきる。 例えば、7月のプレゼンが終わった時点で、学校との交渉の手段を考える、慶應内のサークルなどで興味ある団体がいないかどうかを探す、以上の2つやるべきことがあった。

まず学校との交渉の手段を考えた上で、理工学部の熊倉先生に会いに行った。そこで、熊倉先生がやったコンテンポラリーダンスや万来喫茶についてのお話をうかがった。そこで、アートフェスに関しては予算ゼロベースで考えるべきという指摘と、単発イベントは自己満になりがちなのではないか、という指摘を受けた。

ここで僕は考え込んでしまった。予算ゼロでこの企画を成功するのは無理なんじゃないか。イベントが自己満になるというなら、僕はどうすべきなのだろうか。自己満でもいいじゃないか、と思って、気にかけなければよかったのに。今更ながらにそう思いもします。今となっては推測の域をでませんが、ひょっとしたら当時は、あきらめる理由を探していたのかもしれません。とにかくここで停滞してしまった。

 慶應内の団体を探すということに関しては、近くに住む後輩を呼んで、1年生に配られるサークルが載っているパンフレットをもらっただけ。サークルの多さに面食らって途方にくれたのを覚えている。結局尻込みしただけで終わってしまった。

 そして僕はこれ以降実現に向けての具体的な動きは全くしていない。僕は机上の空論を振り回しただけだ。シュミレーションしては行き詰る、というトートロジーに陥った。そこから抜け出せなかった。失敗の一番の原因はここにある。

 

「本当はアートにそこまで思い入れがないのに、さもあるかのように思い込んで(=背伸びをして)企画を考えたから」とは Edit

 これは僕の致命的な欠陥とつながる部分です。個人的なので省いてもよいのでは、と思ったのですが、頓挫した原因の一つであるのに間違いないので書きます。



6月のこと。村瀬がプレゼンし、それが三田祭の企画につながるかもしれないということがわかった。志賀も三田祭に向けてのプレゼンをすると言った。僕はこのゼミで何か企画を立てて実行したい、と考えていたので焦った。ただ、三田祭で割り当てられる部屋で何かやることに関しては少しも興味がわかなかった。あの狭い空間で何をやるというのか。怪しげなことをしてへらへら笑っているイメージしかわかなかった。そこで、もっと広い空間でやれることを探していた。そこで、ふと、入ゼミの課題「三田校舎を使ったアート」に目を向けた。僕は中野と共作で「公開自殺」というプレゼンをしたが、さすがに自殺するわけにはいかない。そこで色々と考えていくうちに、アートフェスを思いついた。

 ここまでは間違っていない。僕の頭の中には、何かスケールのでかいことをやって目立ちたいという思いと、フェスティバルをやれたら面白いだろうなあという思いがあった。問題はここからだ。そこでアートフェスティバルを企画することにより、上記の二つの思いの他に、ゼミのテーマであるアートを盛り込んだ。それがいけない。

 アートの枠組みを取り付けることで、先生にゼミ員に、そして自分に迎合した。アートを持ち込めば、賛同しない人はいたとしても、反論はしづらくなる。つまり「ええかっこしい」ということ。これはもう仕方がないのかもしれない。小さいころから。親の、先生の、先輩の、友達の、後輩の顔色をうかがいながら過ごしてきたのだから。顔色をうかがえるというのは、相手の求めることに応えるという点で、また、場の雰囲気を読めるという点で優秀であると教えられてきた。この話をすると教育のありかたの話になるのでこれ以上はしないが、とにかく顔色をうかがうのは僕の悪い癖である。これは他の人にもかなりあてはまるのだけど、僕の場合はついやりすぎてしまう。

 つまり、アートという手段は僕の本心からでた「手段」ではないのだ。この事実は、1月7日の岡塾にて、先生が「ゼミのテーマがアートだから、というのは置いといて、三村が本当にやりたいのは何なんだよ」と言うことで指摘されていました。僕は今更ながら気づいたわけですが。まぁ背伸び、というよりも迎合という方が正しいのかもしれません。

 

「努力(のつもり)の方向を誤ったから=根回しに必死だったから」とは Edit

3)で「6月のこと。村瀬がプレゼンし、それが三田祭の企画につながるかもしれないということがわかった。志賀も三田祭に向けてのプレゼンをすると言った。僕はこのゼミで何か企画を立てて実行したい、と考えていたので焦った。」とあるのですが、この時期に僕は、まずはゼミ員のメンバーについてゆっくり知ってから企画を考えればよい、と考えていたのです。

この時点で根回しが始まっています。つまり、みんなの特性やみんながどういうことを望んで、どういうことを嫌がるか、をそれとなく探ろうとしていた。もちろん数ヶ月でその全てを見抜くことはわかっていた。それでも、なんとか探ろうとしていた。

でも、それはおかしい。まず考えるべきはどういうプロジェクトを自分がやりたいのか。そして、それを魅力あるものにし、魅力あるものに見せるのはどうすればいいのか、ということである。その作業をした上で根回しをするのはかまわない。むしろ、企画がうまくいくために根回しが役に立つことも大いに考えられる。要は優先順位の問題だ。本質は企画自体であり、根回しは本質の周りのおまけみたいなものである。

他にも根回しの例はある。アートフェスの企画段階で、7月のプレゼンの前に企画メンバー以外の人にも相談したことは1)で述べた。それは相談した相手の意見や助言を聞きたかったからだが、一部で根回しと言える部分があった。企画メンバー以外の人は、相談を受けることで悪い気はしない。また、相談を受けることで多少なりとも、企画に協力している気がするので、企画自体に反対はしにくくなる。さらに、僕にしてみればプレゼンの前に、その人たちの批判をかわすことができるのだ。

僕はこのようにして周囲の反対意見の芽を摘んでいった。今になって考えてみると、果たしてこういった根回しがなかったなら、アートフェスの企画に対してだされたGOサインもでたかどうかは疑わしい。

本質を見間違えた。これは僕がしばしば陥る落とし穴なのだが、今回もまた、落ちた。

 

「実現可能性を度外視したから」とは Edit

 企画の規模など、企画の枠組みを決めてから考えは始めるやり方がある。一方で、最初は枠組みなど考えずに自由に発想して、それから無理な部分を切り捨てたり、あるいは修正したりしていくやり方がある。どちらが正しくて、どちらが間違えていると言えるものではない。

 僕はあきらかに後者のやりかたを選んだ。それは僕自身の性格によるところが大きいと思うのだが、三田祭という枠組みが決まった中でのプロジェクトに対しての反発によるところもあるだろう。

 では、何がいけなかったのか。

 可能性を捨て切れなかったということだろう。これでは何かきれい事を言っているような気がするので言い換えると、現実を全くわかっていなかったということだ。何ができて、何ができないのか。僕は単に妄想していただけなのかもしれない。

 最初から限界を決めるなんて間違ってるぜ、などと調子がいいことを言っておきながら、切り捨てる作業は全くできなかった。皆無である。これでは絵空事は絵空事でしかない。それならばまだ現実を見つめて、企画の内容を徐々に大きくする、というプロセスをとったほうがよかった。

 

合宿前後からアートフェスを振り返る。年末に考えた反省 Edit

5月の終わりか6月の初めに、村瀬が「ASS」に関する第1回目のプレゼンをしたのですが、その時、僕はやられたな、と思いました。まずはゼミ員のメンバーについてゆっくり知ってから(これがいわゆる「根回し」です)企画を考えればよい、と考えていた僕はこのプレゼンを受けて焦ったのを今でも覚えています。5月は飲み会、6月は合宿があるから、それらをこなしていきつつ企画を考えていこうと考えていた中で村瀬がプレゼンしたので、僕は必死で反論を試みました。そこまで悪意はこもっていなかったと思いますが、かなり醜いものだったのではないでしょうか。というのも、岡原ゼミに入りたてのころ、
「岡ゼミって、やりたくないプロジェクトをやらなきゃいけない可能性もあるわけだろ。そうなったら悲惨だよな」
という話をしていたからです。正直なところ、村瀬のプレゼンにはこの時点で魅力を感じなかったのです。

そして、6月の12、13日にかけて行われる障害学会の合宿の夜に、三田祭で何を発表するのかを話し合うことが決まった。また、個人的に志賀が三田祭の企画を出すということも聞いていた。僕は焦った。自発的に何もやれないまま終わるのではないのか、と。

とは言え、合宿の日はすぐにやってきた。合宿の前々日あたりから準備に追われていた。その上、前日は朝から車を出し、夕方は飲み物などの調達に、夜は中野の家に村瀬と3人で泊まることになっていた。結局何も考えつかずに合宿前日を迎えた。中野と村瀬を置いて「先に寝る」と言って布団に潜り込んで考えていたが、いつの間にか寝てしまい合宿当日を迎えた。

結局、合宿の夜に三田祭についての話し合いはたいして行われなかった。そのため、翌週のゼミの時間にきちんと話し合われることになった。僕は正直合宿の夜に三田祭に何をやるのか決められたらたまらないなぁ、と思っていた。



ではあの夜になにがあったのか。(以下は仮名でいきます。)

*年明けに先生に送ったメール一部改変

「そんなことねぇよ。仲良くて何が悪いのさ。」
2004年6月13日未明、ほし山旅館の2階ロビーでの一幕である。合宿参加者の半分くらいは寝ていたのであろうか。僕の向かいのチチから、時計回りに、トランクス、クリリン、ピッコロ、18号、僕、ブルマ、ヤムチャ、17号が輪になってロビーにたまっていた。話題はひょんなところから岡原ゼミについてになった。そこで僕はこう切り出した。

僕「先生も03の人たちも、04は仲がいいけどさ、みたいに言うけど、あれはなんのさ?すげぇむかつく。仲よいっていいことじゃん。」

チチ「あんたたち、特に三村君、なんか勘違いしてるんじゃないの!ゼミはサークルじゃないの。遊びにきてるんじゃないでしょ。私たちなんて別にゼミでは話すけどそんな仲良し集団じゃないわよ。ねぇ17号。」

17号は遠い目をしてうなずく。

僕「サークルじゃないことくらいわかってるよ。でもさ、仲良くて、コミュニケーションがうまく取れた方がうまくいくことがあるはずだよ!」

ピッコロ「いや、三村の言いたいことすごくわかるよ。そういうのって大事でさぁ…」

18号「別に先生とかに言われても気にしなけりゃいいじゃん。」

チチ「あんたのやってることは仲良しごっこなのよ。そんなのサークルでやればいいのよ。勘違いしないで欲しいわ。」

僕「仲良くないのは言い訳にすぎねぇ。仲良くて、それで色々な意見とかぶつかりあっていいものを創れれば最高じゃないかよ。03はなんでそれを目指さなかったわけ?逃げてるだけだよ。」

チチ「は?意味わかんない。」

僕「いや、オレは別に仲良しごっこなんかしたくねぇよ。仲良くて言いたいこともいいあえないグループなんか最初から目指してねぇ。オレは色々言うよ、04に対してだってさぁ。それで気まずくなるくらいならそんな仲間いらねぇよ。だから言うけど、今日のみんな、なんだよ?感情Tシャツのどこが楽しいの?なんか一生懸命やっちゃってさ。その意味わかってやってるわけじゃねぇだろ?俺はあれのどこが感情なんだかわかんねぇよ。みんなのしてることって迎合してるだけじゃん。」

―誰かが、楽しいから、と答えた気がする。僕はもう冷静さを失っていた。今になって考えてみれば感情Tシャツの意味云々を理解した上でのワークショップは感情社会学的試みとはずれるのではないか、と思う。そして、僕自身が何故あの時に感情Tシャツに嫌悪感を覚えたのかわからない。むしろ今になって考えてみると、見る前に飛べ、という言葉が座右の銘といってもいいくらいの、物事に対する僕のアティテュードと感情Tシャツのワークショップの試みは近いものがある、と僕なりに解釈しているのだが。あの日そう思った理由は謎である。その謎についてあれこれ考えるのは管理されていない感情社会学から逸脱することになるかもしれない。それでもなお語ろうとするのならば、ただ単におもしろくなさそうだった、の一言に過ぎないのだが。

そして話を元に戻すと…

僕「てかみんな意味わからねぇんだろ。そしたら岡原に聞けばいいじゃなねぇか。おかはらぁ~」

ブルマ、クリリン「やめとけって。」

そんなこんなでしばらく話は続き、

トランクス「とりあえずさぁ、俺らまだ知り合ってちょっとなわけじゃん。だからゼミのスタイルとかわかんねぇし、これからおいおい定まってくものなんじゃねぇか。」



この一言で、とりあえずその場はお開きとなった。(仮名終わり)


そして13日、手形を感情Tシャツにつけているのを横目に、白いペンキをヤケクソ気味に顔にぬりつけてそのまま黒いTシャツに顔を押し付けている自分がいた。あとに残ったのは妙な満足感と達成感であった。

 そして今、果たして当時の僕の発言は正しかったのか疑問に思う。第2回岡塾にて高橋さんが

「もうホントいまのゼミはサークルだよ。」

この言葉を発した時、僕は否定できなかった。ただ頷くだけであった。思えば、アートフェスの話し合いをしていたときに、溝添が

「いやぁ~三村がいなきゃ俺たちここまで仲良くならなかったよ。」

と言うのを聞いて、僕はいい気になっていた。当時はそれでよかった。当時はそれでも言いたいことを言い合って、よいものを創ろうという気概が、情熱があり、そして創り出せる自信があったのだから。仲良くても意見し合えるグループができる気がしていた。今は…。どうだろう。胸をはれない。さらに先生の

「いやぁ、三村ぁ来年の05も頼むよ」

の発言にびくっとしつつも、

「任してください!」

うっ、思わず口にでてしまう。本音であることは間違いないのだが。すると先生は

「あれ就活は?」

「いやぁ、僕にとっての就活なんて遊びみたいなもんスから。」

げっ。ちょっと虚勢を張ってる自分に気がつく。そこにねぇさんが

「先生それ去年も言ってたよね。」

何ぃ?所詮オレはone of themでしかないのか…。それ以上言い返せない自分が悔しい。情けない。惨めである。このやりとりは実は僕の中ではかなり尾をひいて、先生に相談しようと強く思わせるきっかけになったものだった。少し整理すると、

果たして僕はプロジェクトを丸投げで放置したままでいいのか?

今後の就活との兼ね合いはどうするのか。きちんと責任を負えるのか?

賛同する人間でも就活で手伝えないことの方が多いのではないか?

05はどうなのか。やる気は?姿勢は?



ということがいままさに不安として頭の中をよぎっている。
 そんな折にwikiの05のページを見てみる。すると、何やら「みんなで旅行に行こう」などと書いてある。先日見せてもらった、僕の所属するサークルの1年生のホームページに書かれている内容と大差なかった。ひどいなぁ、と思う。でも翻って自分のページを見てみると…制服じゃnight、なんて書いている。すみません。一番ひどいのは自分でした。